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ミリーさんの批評コーナー
Last Up Date:2009.05.10
ココでは、『団吉・なお美のおまけコーナー』『渡辺篤史の建もの探訪』『松本幸四郎のバンテリン』くらいのノリで、いろいろなことに批評をしていこうと思います。

ギター侍の書 -2009.06.08-
とある私鉄。
なぜかこの本が電車のシートに忘れ去られていた。
僕は錯覚を覚え、まるでこの本が『有難い一冊』であるかのように思ってしまった。
妙な高揚感を覚えてしまったため、思わず手にとって中身をパラリパラリとめくって読み始めてみた。
数分後、
僕は下車してしまったので、有難く元の場所に戻しておいた。

たった数分だったが、読み終えた。
5駅くらいの区間だっただろうか。
それほどまでに読み応えがなかった。

内容には、驚くべき点がひとつもなかった。
しかし、卒業アルバムを開いたときのような甘酸っぱい懐かしさがこみ上げてきた。
それこそが、僕にとって本作のハイライトであった。
つまり、本を開いた最初の数秒間にのみ、何か作品という存在に“触れる”ことが出来た実時間だったといえる。
その後の記憶は、率直にいって、誰かに消されてもいいとすら思っている。
それほどまでに読み応えがなかった。

特筆すべき部分などないが、強いてあげるならば、帯部分コメントの徳光和夫による“ギター侍に斬られてこそ一流芸能人”という文句に、冷や汗が出たことくらいだろうか。
まさか、自分で自分を『一流芸能人』と判別するとは思わなんだから。
中に綴られているネタに関しては、「あ〜あったなぁ」という感情以外に何も沸いてこない。
そういえば、「白骨温泉が入浴剤混ぜて白湯温泉です」って事件があった。
そんな感じだ。
全てがぬるま湯でぼんやりとしている。
白骨の黒歴史、グレーな思い出。
思い出すことがなかなかできない。
なぜなら読み応えがなかったからだ。

ページの左隅がパラパラ漫画(写真)に仕上がっているのには、(実をいうと)少し驚いた。
というのも、ちょっと試しにパラパラしてみたら、3秒で終了する娯楽空間であったからだ。
全部で100Pくらいあっただろうか。
この内容で何回も遊べたら、俗にいう『奇跡』というやつが起こったと解釈していいと思う。
チラリと背表紙に目をやると、“価格1000円”と記載されていた。
当時の日本は潤っていたらしい。
5年という月日が惨酷だとは思わない。
そういった年数が経ったとしても、
この本は当時から、本当に読み応えがなかった、
そういう風に、僕は心から思えるのです。

心地よい面持ちで、電車を降りたことを記憶しています。
ありがとう、ギター侍。


初夏の行動 -2009.05.10-
コンビニで、コーヒー牛乳を買うとする。
ビニール袋にコーヒー牛乳が入る。
ドイツ人あたりが、
「日本人一人当たりのビニール袋の消費量は、信じられない! イルカを食べるキ印人種!!」
とか地球の裏側で叫んでいるのをよそに、
僕は、もうちょっと大きめのビニール袋が欲しいなぁ…
などと、丹下左膳のモノマネをしながら、
カワイイ店員さんに向かってウインクする。
つまり、目を瞑る。
(「独眼鉄が無眼鉄になっちまったな」)
店員の女子は、意味がわからず、もちろんスルーする。
返事がない…ただの屍のようだ。
家に戻って、そこで初めて気がつく、途方もない虚無感を。
一連の行動にではない。
ストローが入っていないことにだ。

今のサッカー日本代表は、こんな感じだ。
カズが入っていない。
毒眼鏡は、薄汚ねぇシンデレラだ。
俺はミロが飲みたい。


狼と豚と人間 -2009.04.24-
ビルのなかの景色から、目の前に見えるのは六本木ヒルズだった。
「邪魔だなぁ」と僕は、思った。

さて。
少し前、深作欣二監督作品「狼と豚と人間」を劇場にて鑑賞した。
70年代に全盛期をおくったであろう氏の印象からすると、64年に完成した「狼と豚と人間」は、“深作夜明け前”の作品といえる。
同年には、ニシン漁の人間模様を激烈に描ききった傑作「ジャコ萬と鉄」も監督しており、ハンディで群像劇を抉り出すあの深作節は、まだ満開といえるほど開花していない黎明期だ。

だからして、この「狼と豚と人間」という映画は、深作イズムが“八分咲き”という、ある意味では、桜を筆頭とした鑑賞物などを眺める際に、最も見応えのある時期にプロダクトされた一品といえ、僕は、この作品を劇場で見る機会を楽しみにしていたのだ。

ちょっと話を脱線させてよ。
「仁義なき戦い」の伏線となったのは、その1年前に公開された「現代やくざ・人斬り与太」であることは間違いない。スピード感や弱肉強食の綴り方だけならば、「仁義なき戦い〜5部作」よりも、断然面白い。ノーライト、ノーレフ、ハンディ、望遠レンズ100ミリなどを主体とした深作イズムが完成の域に達した金字塔的作品は、「仁義」よりもむしろこの作品であり、「仁義なき戦い」の成功は本作抜きには語れない。

「仁義なき戦い」では省かれることとなる“スケ”(女)の力強さも、見事に描写しており、文太のスケを演じる渚まゆみの忸怩たる思いと情熱は特筆すべき存在といえる。深作欣二の素晴らしいところは、このような弱者(時にそれは鉄砲玉であり、女であったりするわけだが)に命を吹き込ませる手法であり、キルビルを見た際に、タランティーノに絶望したのは、弱者の描き方が驚くほどに適当だったからだった。『戦勝国の人間には、描けないんだろうな』と、こそばゆかったのはここだけの話。

それにしても、64年から73年までの約10年という月日は長い。八分にまで達していた深作が、たったのあと二分、辿りつくために、約10年の歳月を要したのだから。東映から「おまえの作品はわけが分からない」と宣告され、このままでは“東映の清順”(要するに干される寸前)になりかけた時に、時代が70年代にシフトしたことで、九死に一生を得ることになるが…今思えば、それが果してよかったのだろうか。

≪深作の前に深作なく、深作の後に深作なし≫

話が長くなるので、ここら辺で深作論はやめておくが、今改めて深作ワークスを見たときに、『70年代が深作を救った』のではなく、『深作が70年代を救った』わけで、少々辛らつかもしれないが、言い換えれば、『深作は70年代に利用された』と放言したくなるくらいだ。

なぜなら「狼と豚と人間」を見れば、深作の映画魂がすでに完成していることに気が付くからだ。ノーライト、ノーレフ、ハンディ、望遠レンズ100ミリなどの技術的な深作イズムこそ未到達(それゆえ八分咲き)だが、作品に流れる氏の本質は、すでに十二分に発揮されている(それは「ジャコ萬と鉄」にもいえる)。60年代でも70年代でも、まったく深作はブレていない。

東京のとあるスラム街。
スラムにいる限り、豚と同列の生活しか出来ないと思った長男の市郎(三國連太郎)は10年前、家の金を持ち出し、親と兄弟を捨ててスラムを飛び出た。次男の次郎(高倉健)もまた5年前、兄を追うようにスラムをから姿を消した。家には、寝たきりの母と末っ子であるサブこと三男の三郎(北大路欣也)が残り、三郎は母の面倒を見ることに…。

市郎は、繁華街を取り仕切る岩崎組にへつらうことで組織の中堅に≪豚≫。
次郎は岩崎組のチンピラになったものの、儲けの殆どを「上納金」に持って行かれることに不満を抱いていたため、岩崎組のシマを荒して荒稼ぎをするはぐれモノに≪狼≫。
三郎は、スラムに残り母の面倒を見続け死を看取ることに≪人間≫。

三者の立場と想念が、一つの事件(サブプライム問題ならぬ、さぶクライム問題)をきっかけに交錯するという本作は、深作欣二がいかに独創的であったかを天下に知らしめるに最適だ。往年の深作に、今平テイストがブレンドされたかのような雰囲気は、70年代の深作にはない“蒸し暑さ”がある(「夕陽のガンマン」のような三者三様とは違うし、「白熱」のようなクライムものでもない)。
それでいて、音楽は富田勲というカッコ良さ。
ネタバレになるので言及は避けるが、作品全体を通しての、あらゆる面での二律背反が凄まじいッ。主要4人である三國連太郎、高倉健、北大路欣也、江原真二郎の存在感は、「レザボアドックス」における倉庫内のハーヴェイ・カイテル、マイケル・マドセン、ティム・ロス、スティーブ・ブシェーミに比肩するかも…以上かも。
まぁとにかく、唯一のミステイクは、欣二の嫁さんである中原早苗の演技だけ!

そして、俺が豚野郎ということくらいなのだ!!


ジェフ・マックレーの極限生活 -2004.10.27-
「元気があれば何でも出来る」ってのは本当なんだろうか??
じゃあ、元気を出したらどれくらいのことが出来んのよ?!って話だよね。
思うに、溶岩が溢れ出す火口付近まで歩いていくことぐらいは出来んじゃねぇの?
それが駄目ならハリケーンの目まで入っていくことぐらいは出来るんじゃねぇの?
と思うわけです。満面の笑みで。いや、無理か…。

そんな僕の杞憂をすっ飛ばしてくれたのが、元気があり過ぎて命を“偉大なる無駄遣い”してしまっている男・ジェフ・マックレーだ。ディスカバリーチャンネル内で特集放送していた表題の番組、はっきり言って『頭がオカシイ』以外の何物でもない傑作番組だった。冒険カメラマンのジェフが仲間たちを連れて“極限状態の場所に好んで行く”という企画なのだが、これがどうしてロマンを駆り立てる。誰しも子供の時に台風が近づくとワクワクしたことだと思うが、40前後のオッサンが満面の笑みで、いまだそれを実践しているのだから尊敬です。尚且つカメラマンの大義の下、貴重な映像を体を張って撮影しているのだから礼賛です。

だが、どこをどう見てもジェフがそんな名分を抱いて行動しているとは思えないのです。
ただ純粋に、自然の驚異と戯れたい…その一心にのみ動かされている。
どこの世界にサイクロンの目の中に入るため“何百万もかけて『対サイクロン用の装甲車』を作る”人間がいる? 
しかも、せっかく作ったにも関わらず“肝心のサイクロンが全く来ず装甲車を使わずに帰宅する”人間がいる? 
その帰宅途中に“遠く離れた所にサイクロンが発生したので飛行機で現地まで飛んで追いかける”人間がいる? 

傑作企画として「お笑いウルトラクイズ」内にて行われた『バスアップダウンクイズ』というのがあるが、それに比肩する面白さだ。そう言いきれるのは、なんと言ってもクライマックス『vs溶岩篇』があるから。
“ブルトーザーで火口まで降りていく”という黒4ダムも真っ青の最狂計画を実行するため戦車(ブルトーザーと仕組みが似ているため)でライセンスを取得し火口へ向かう様は“世界で最も面白い男”以外の何だというのだ。結局島から「そんなふざけた計画にGOサインは出せない」といわれ別計画にスライドするが、その計画も「火口の両端にケーブルを張って下にロープで降りていく」という健全的なのか不健康なのかサッパリ分からない方法だから異常すぎる。

途中、山頂付近のきまぐれサイクロン(ジェフが「今日は火口に行く気分じゃないんだ。ダルイんだ…」と休日を申し入れて日程が押したため災難にあう)に見舞われメンバー全員が“後悔”の念を過ぎらせる中、大爆笑しながら「生命の危機です!」と叫ぶジェフ。
こいつは知略0・人徳100のピーターパンだ!!
ビニールの布がへしゃげている風にしか見えない、もはやテントの面影は無くなった、その布の下でひたすら救助を待つ彼らの勇姿を一生忘れることはないだろう。
後日、リベンジとばかりにエチオピアの火山に殴りこみをかける姿も圧巻だ。なんせ彼は、月面に降り立った人間より少ないといわれる“火口の溶岩湖に降り立った”人間なのだから。それでも彼の大志を見れば、その一歩もたいした一歩ではないのだろう。
勿論、我々人類にとっては本当にどうでもいい一歩なのだから。

しかしだ。この圧倒的なまでの余薫はなんなのだろう。
『2001年宇宙の旅』の原作者アーサー・C・クラークは“昼夜問わずディスカバリーチャンネルのみ観賞していたら物語が浮かんできた”そうだ。
それだけ人を焚き付ける浪漫が散華しているのだ。だって、ジェフ・マックレーの後番組は“ムスタングを改造して芝刈り機兼用車にする”って番組だよ! 隣の芝生は、ホントに青い。
トルネード・オブ・ソウル!


フレディのワイセツな関係 -2004.09.14-
この時期がやってきた! そうM・ナイト・シャマラン監督の最新作が日本で公開する時期が!!
毎回毎回、そのクソ映画っぷりに舌鼓をさせていただいている僕としてみれば、今回の「ヴィレッジ」も必ずやってくれるだろうと期待している。下馬評では「そこそこ評価がいい」となっている今作だが、サインでの『無理矢理なラスト』、アンブレイカブルでの『オチてないラスト』、シックスセンスでの『途中でバレバレのラスト』というDマイナーから開放弦的な奇跡のコード進行を思うと「期待」の二文字しか頭には過ぎらない。中途半端に面白いもの、つまらないものを、この監督には全く求めていない。

シャマランの狂走ぶりは、中原昌也をして「まったく意味が分らない。とにかく見ろとしかいいようがない」とのコラムを書かせるほどで、こと問題作「アンブレイカブル」での暴走ぶりには手がつけられない。ラストは全映画ファン必見の名シーンとなっているので、本当に暇な時にでも見て欲しいところである。余談だが、この作品前後のサミュエル・L・ジャクソンの俳優としてのコワレモノ具合は田口トモロヲに通じるものがあって相当ファンタスティックだ。ケミカル51では(映画としては普通につまならい)、全く本編と関係ないラスト終了後の最後の最後に『全裸でゴルフをする』という意味不明なドラッグシーンがあったりととにかくキレまくっている。「ドリームキャッチャー」でのモーガン・フリーマン、これらの作品のL・ジャクソンを見ていると、「黄金虫」にも似た読後感があるから不思議だ。全くもって黄金の指標にはならない、純粋なまでの黄金の虫だ。ただ、まばゆいだけの虫だ。美しい。

最後に最近、とてつもない映画を観たのでここにさらしておこうと思う。
2002年のラジー賞を5部門も制覇した「フレディのワイセツな関係」なる映画。
この作品、当時ドリュー・バリモアの亭主だったトム・グリーン(コメディアン)が製作・主演・監督を務めたものなのだが、見事にその全てでラジー賞をとった異形の作品である。明らかにバリモアの資本で製作されただろうバリモアLOVEな本作は、『彼女のおかげで製作できた』という動きに反発するように悲惨かつ壮絶かつ豪快なギャグ満載のファニースメルを撒き散らし、ラジー賞受賞という枠だけにとどまらず『バリモアと離婚』という代償まで払うという最高のエンターテイメントぶりを発揮してくれた『Show the Flag』精神全開の映画である。

わずか6ヶ月で離婚した背景には、確実にこの映画が潜んでいる! と観てくれた人なら誰もが思うはず。「こんな恥ずかしい作品、誰にも見せたくない!」と彼女が思ったかどうかは知らないが、日本では公開されなかったためビデオ屋にもなかなか置いていないので、もし見つけたらrent&lookだ。
一見、くだらないギャグ映画に感じるだろうが、なかなかどうして個人的には大笑いした。アメリカンとは思えない英国風ウェットかつライトな笑いに、日本的な「山椒は小粒でぴりりと辛い」的な細部にこだわる笑いは、どこかモンティ・パイソン調でありながら、一方でリアクション芸人的でもある。それでいて芯はアメリカン・ジョークを体を張って実践するのだから面白い。「センスのある笑い」とは何だ? と聞かれたら返答に困るだろうが、「アメリカ人が作ったセンスのある笑い」を説明しろと問われれば、僕は黙ってこの作品を差し出すだろう。

このトム・グリーンには「第二のブルース・キャンベル」を目指すべく更なる進化に期待したい。監督としてもポール・ヴァーホーヴェンやシャマランなどの巨匠ならぬ虚匠になれる逸材だと思うので、おそらくもうすでに腐っていることだろうが頑張って欲しいものだ。
エンドロールのNG集と見せかけて『実際は本当にコレで大丈夫なのかなぁ〜というトムが悩んでいるカット』集や、今は亡きバリモアとのラブラブショットなど、エンドロールでお見せするには疑問符しか思い浮かばない無必要かつ人畜有害なシーンなど見ると彼の映画デッドマンとしてのポテンシャルに拳を挙げて応援したくなる。
なんとかなるって、トム! 
僕は死んでもこれらの映画は撮りたくないが、傍観者として最高のネタ提供者である彼らにますますのご多幸があることをお祈りいたしております。


総長の首 〜遊撃の美学〜 -2004.06.29-
26日から9日まで『遊撃の美学』と題された中島貞夫映画特集が、池袋・新文芸坐内にて公開テロ中である。恐らく、中島貞夫特集と題して2週間も打っ続けで公開するなどという暴挙は最初で最後ではなかろうか。

下記の「狂った野獣」でも書いているが、中島監督は「天才」という冠を被せても遜色のない、数少ないスーパーな監督の一人だと思う。ここにきての中島特集の真意は、中島貞夫再評価という気炎が上がっているからだとか。もしこれが、ワカモノたちによるイマドキの間違ったサブカル推奨運動の一環だとしたら、なんとも悲しい限りでゾッとする。モンド的な要素なら致しかたないとして、中島貞夫の世界は“いつなんどき誰の挑戦でも受ける”、そんな時代の死線をゆうに越えている不朽の映画だ。

中島貞夫ってどんな作品撮るの? と問われれば、新文芸坐のパンフに書いてある活字を紹介すれば一目瞭然である。
『遊戯と反逆』『美学と猥雑』『聖と俗』『真意と逸脱』『テロルと情念』『不発の爆弾』『ギリシャ悲劇』『映画の毒』『非日常への陶酔』『アングラ・ハプニング』『叛実録・遊撃の彼方』そして『遊撃の美学』だ。

出るわ出るわ、インチキ臭い活字の山々。こんな“きな臭い”活字の貝塚が表紙を躍るからして、中島映画の発光性はとてつもなくデモーニッシュだ。メインストリームからサブカルまで、ありとあらゆる事象を培養して光合成する『遊撃の美学』。混沌の中に全てが存在する唯一無二の監督、それが中島貞夫。あたくし、勿論、池袋まで行って参りやす。

中島作品の中でも、一番に押す声も多かろう『総長の首』(1979年)は何から書いていいのか迷うほどの傑作だ。が、結局何から書くか解らないほどの傑作でもある。仁侠映画が、いつしかアナーキズム映画にシフトチェンジしていくさまは美しく儚い。童謡「しゃぼん玉」を“志を見失ったアナーキストの歌”と位置付け、渡世から爪弾かれていく小異を大同で私刑していく『アナーキー in 坐 浅草』の壮絶さ。空前の面白さと絶後の儚さを同棲させた、面白さの両親も儚さの警察も非公認の禁断映画がこれだ。

本編とは無関係なのだが、この映画を語るうえで絶対にかかすことのできないシーンがある。箸にも棒にもかからない三文喜劇役者志望の男(小倉一郎)がドサ回り中の舞台を覗くと、自分よりも2回りも3回りも年上の老人(西村晃)がピエロのような白塗りで面白い無声劇を演じているではないか。ドサ回りだからして観客のジジイババアやガキは誰も真面目に見ていやしない。楽屋に戻ってきた西村晃は、一升瓶片手に呑みながら叫び、一升瓶を割り捨てる。周りの同業者が止めようとする中で、

「あんな奴らにオレの芸がわかるか! オレの芸はニューヨークなんだ! パリなんだ! 浅草も田舎もクソだ! クソばっかりだ! こんな監獄みてぇな国、クソッタレだー! クソ! クソー! っー!」

と咽びながら、割れた一升瓶のガラスを、口内血だらけで泣きながらガリガリ食うのだ。クソタッレ〜と言いながら。それを見て小倉一郎は役者の道を諦めるシーンなのだが、このシーンの二人(と言っても、二人は一度も会話なし)、特に西村晃の演技は凄すぎる。笑えて泣ける。多分一生忘れないだろうな〜と思ったほどだ。僕が言うのも申し訳ないんですが、ほんとに素晴らしすぎる。本当に凄い役者だよ。

アンパンマンの歌の歌詞を知っているだろうか? あの歌を具現化すると、この西村晃になるんじゃなかろうか。アナーキズムとヒロイズムが、なんだか無性にグッとくる。そんな歳ではないんだけどなぁ…。


シリーズ7〜バトルロワイヤル -2004.06.08-
佐世保で発生した「カッターナイフ…ガールズ・マーダー」の余波で、テレビ局は軒並み“事件を想起させるようなドラマ”の放送延期を発表した。デリケートな問題なのは解るが、こういう遠回しの便宜をはかる暇なんてあるのかねぇ。芥川龍之介の言葉を拝借すれば、

『道徳は便宜の異名である。「左側通行」と似たものだ』

ということになるわけなのだから。問題は他のところにあって本末転倒にならないことを祈る。そんな刃物を自粛するご都合主義の中にあって、みうらじゅん主催の『郷土LOVE2004』内にて行なわれた“なまはげショー”は出色のゴラクだった。なぜって、なまはげが遠慮なくリアリティ溢れる擬似出刃包丁を振り回して咆哮していたからだ。

世間の体裁に振り回されることなく“いつも通りになまはげを演じ続けたであろうオジさん”たちに真の祭りの姿を見た気がしてならない。ガチャピンのチャレンジシリーズと同等の衝撃を体感できたことをただただ嬉しく思うのであります。その後の『なまはげとジャンケン大会』とか『山岳戦隊テングレンジャーショー』は片腹痛い茶番劇でしたので、結果的に「行って正解だったのか?」と問われれば「Only GOD knows」という他ないだろう。

さて、先の佐世保。なんでも加害者のガールは、高見広春の「バトルロワイヤル」を完読していたとか。映画版「バトルロワイヤル」の未完成さたるや、深作プリンシプルの小生でさえ「つまらない!」の一言で片付けられるほどの駄作だったが、オリジナル小説版は時間を忘れるほど夢中で読めた娯楽大作であったと心から思う。

メディアで「バトルロワイヤル」の娯楽性が婉曲して伝えられる様が、目に浮かぶだけに悲しいが、それ以上に“小説の良さをまともに表現出来なかった映画版”ということも触れておきたいところである。一応、深作欣二氏はストーリーに独自のアプローチ(日頃、生徒に足蹴にされるキタノ先生の一方的な復讐モノにしたかった)を展開したかったという。しかし、案の定「NG」と言われしまいナクナク忠実に撮影したのが、あの中途半端な作品というわけなのである。今でも、欣二ロワイヤルを撮るべきだったと思う次第だ。

「バトルロワイヤル」の甘酸っぱい部分だけを抽出してしまったかのような映画版。過激かつユーモア、シニカルで楽しめる、そんな「バトルロワイヤル」を待ち望むなら「シリーズ7」(2001年)を是非観て欲しい。本国アメリカでも賛否両論の本作は、とかく「やりすぎ」「リアリティーに欠ける」などと言われ“娯楽における一つの踏絵的作品”と位置付けても決してオーバーでない作品だ(断言)。

簡単に説明すると、ランダムに選ばれた7人の普通の市民が互いに殺し合うところを中継するというリアリティTVのパスティーシュ。終始、テレビ番組のフォーマットを採用しているため、実際にこのような番組が本当に行なわれているかのような世界観は見事と言う他なく、7人(産婦や老人、未成年、パパなどなど)それぞれが意気込みを語るドキュメントシーンなどの演出は白眉である。

リアリティTVに対する批判というよりも、アメリカ銃社会の末路を皮肉たっぷりでコケにしているという作り(随所に「やりすぎだよ(笑)!」という絶妙の演出があるため)に見えてならないので、僕はマイケル・ムーアの作品よりこちらの作品の方が好きですね。「映画に芸術性と娯楽性の共存を望むような人」は見ないほうがいい作品であることも、最後に付記しておきますので悪しからず。

こういう作品をどう受け取るかで、今回のような事件が起こりえるのだとしたら、もう「この世の中心で中心と叫ぶ」他ないような気がします。「シリーズ7」のサントラには「ガールズ・アゲインスト・ボーイズ」という珍しく優れたオルタナティブバンドが数曲サポートしています。オルタナティブとは元々「もう一つの。代替案。旧西ドイツの『緑の党』のような新しい価値観の創造を目指す運動・思想。」という意味があります。彼らの曲を多数使っているという点から見ても、この「シリーズ7」がオルタナティブな作風で、観客の既存の価値観を試す作品であったのではないかと思えます。そしてそれは「バトルロワイヤル」にも言えるような気がするわけで。だからこそ異端児・深作欣二に納得して作ってほしかった、と思わずに入られないわけなのです。 




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